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【心理学コラム】SNSとジェネレーションギャップとゴーギャンの間で
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心理
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「人」に関しての「ふ~ん」「へー」「ほっ」
シリーズ
小林厚志の「やっぱり頑張ろう」
自称下町心理学者の小林厚志が、身近にあるのに何となく理解し難い「心」「精神」「意識」をテーマに、まるで街ブラかのような感覚で「ふ~ん」や「へー」をお届けします。お勉強の合間の息抜きに、ごゆるりとお付き合いください。※学者口調を意識したので敬語が省かれてることをご容赦ください。
11月に入り、ちらほらと2024年の話が飛び交ってきた。
ありがたい話ではあるが、毎年この頃から年明けまで手帳を二冊持つはめになる。
システム手帳やデジタル手帳ではなく、一年で使い切るアナログ手帳を愛用しているからである。
さらに、B5サイズを愛用しており、ビジネス鞄の相当な部分を占拠する。
合理的に考えれば他の方法もあるのだが、やめたくないこだわりである。
このようなこだわりではないのだが、私はSNSに触れる機会が極めて少ない。
周囲の人間に聞いてみると、X(元Twitter)やInstagramなど、投稿まではしなくとも毎日見る(「見る専」と言うらしい)ことはするとのことだった。
頻繁に投稿する者は、一年の振り返りにSNSを見ると言っていた。
なるほど。
手帳のような役割をSNSが果たすのか。
確かに便利である。
そういう使い方もあるのかと感心した。
SNSが流行りだした頃、
SNSに投稿するということ(投稿意義、もしくは投稿心理としておく)は、
「認められたい」「目立ちたい」などの承認欲求の現れとして解釈されることが多かったように記憶しているが、ここまでの普及を見せた今、承認欲求の現れだけで解釈することは早計だろう。
家父長制的な家族観からの変化や、物理的距離に依存しないコミュニティ観の生起に伴い、SNSに投稿することによって、つながりの感覚(アドラーは共同体感覚と呼んでいる)を確認するためや、単純な情報共有の場(ひと昔前でいう回覧板のような)としての役割を果たしているように見える。
当然、「かまってほしい」「寂しさを埋めたい」のような低次の承認欲求(マズローの欲求5段階説参照)が動機となっているケースもあるだろうが。
「鶏が先か卵が先か」のような話だが、
コミュニティ観の変化がSNSの投稿意義に変化を促し、SNSへの投稿意義がコミュニティ観の変化を促しているような相互作用があるようにも思う。
何はともあれ、「私のこだわり」や「SNSにおいての挙動(見る専や、頻繁に投稿する、など)」や「SNSへの投稿意義」や「家族観」や「コミュニティ観」の根元的なテーマのひとつは、「私は何者であるか」である。
「私は何者であるか」
これを心理学で解釈するとすれば、精神分析学者エリク・H・エリクソンのアイデンティテ
ィ理論がヒントをくれる。
アイデンティティとは、エリクソンが青年期の中心的な心理社会的発達の課題として提唱した概念だ。
「わたしはわたしである」とか「わたしはわたしらしく生きている」といった確信に近い感覚である。
「わたし」という自己の属性には名前、身体的特徴、性格、価値観、社会的役割、身分など多様な側面が含まれるが、アイデンティティの感覚とは単なる自己概念や自己定義ではない。
エリクソンはアイデンティティの感覚を「内的な斉一性(ameness)と連続性(continuity)を維持しようとする個人の能力と、他者に対する自己の意味の斉一性、連続性とが一致したときに生じる自信」と定義している。
斉一性とは自己をまとまりのある不変な同一の存在として認識していることである。また、連続性とは過去から未来にかけての時間的な流れのなかでの自己の安定性を意味している。
さらに、アイデンティティの感覚は「他者の存在によって支えられているもの」であることが強調されている。
そして、この自信(アイデンティティの感覚)が青年に生きがい感や充実感をもたらすと考えられている。
逆にアイデンティティが拡散したり混乱している状態の特徴としては、
①選択の回避:外的な孤立と内的な空虚感
②親密さの問題
③時間的展望の拡散
④勤勉さの拡散
⑤否定的アイデンティティの選択
などが挙げられている。
また、エリクソンは青年期から成人期に至るまでの期間をアイデンティティ確立のための心理社会的猶予期間(psycho-social moratorium-モラトリアム-)とよび、そこでは社会の中で自分の適所を発見するための自由な役割実験(role experimentation)を行なうことが重要であると述べている。
役割実験とは具体的にはアルバイトやボランティア活動、あるいはさまざまな対人関係を経験する中で多様な役割を引き受け、演じる中で自己や他者、社会への理解を深め、自分らしさや自分のあるべき姿を確認する活動である。
「私は何者であるか?」➡「わたしはわたしである」
エリクソンを踏まえて端的に言うと、
人は、青年期(13歳から22歳頃)〜成人期(22歳から40歳頃)にかけて、様々な経験を通して、「わたしはわたしである」という自信を獲得するということだ。
「私は何者であるか?」のテーマに置いて、どれくらいの納得が得られたであろうか?
私のクライエントの多くに共通するテーマがある。
それは「虚無感」である。
言い換えると、アイデンティティが拡散したり混乱している状態であると言える。
彼らは「私は何者であるか?」の問いに回答することを、苦痛のように感じている節がある。ただし、彼らは様々な経験を通していないわけではない。むしろ、「私は何者であるか?」の問いを、より真面目に、より深淵に考えている側面があるように見える。
「そもそも確固たる自分などない」
エリクソンのように、「『わたしとはわたしである』という確固たる自分が存在する」という主張の一方で、哲学の世界では、真逆の思想が存在する。
そもそも「確固たる自分などない」と主張するのが、フランスの哲学者ミシェル・セールである。セールの考え方を理解するためには、同じフランスの近世の哲学者デカルトの「我思う、ゆえに我あり」を考察する必要がある。
デカルトは、「私とは何者であるか?」に解を出した先駆者と言える。彼は「考える自分というものがこの世に存在し、それこそが私たち人間の本質である」と言っている。
哲学の世界では、基本的にこの考え方を支持してきたが、セールは真逆を唱えた。
「考える」ということは、必ず何か考える「対象がある」ということ。
であれば、何も「対象がない」ということは「考えられない」ということである。
そして、デカルトが言うように、「考える」ことが「私の本質(私という存在)」であれば、「対象がない」ときは、何も「考えられない」ということから、「私は存在しない」ことになりうる。
つまり、私たちは「何か対象があって初めて存在する」ということである。
セールは「我思う、ゆえに我なし」だと言っているのだ。
正確に記すとセールは、「私たちは、エートル(Etre-フランス語の基本動詞-)のようなものとも言える」という。「エートル」とは、英語でいう「be動詞」のようなものだ。「I」が主語なら「am」になり、「He」が主語なら「is」になるように、対象によって形が変わるということである。
その点を踏まえると、「自分は存在する」ということはあるが、「確固たるもの」とは言えない。「自分が何者なのか?」は、相手や対象次第であり、例えるならカメレオンのように環境によってその都度で変わるものである。
ダイバーシティ&インクルージョンのような考えが浸透してきた現代では、セールの言う「確固たる自分などない」という考えの方が、納得感のある人も多いのではないだろうかと感じる。
終身雇用の考えは薄まり、副業やフリーランスでの働き方が珍しくなくなってきた今日で、「確固たる自分」よりも「常に変化する自分」の方が受け入れやすいのではなかろうか。
「確固たる自分はあるのかどうか?」これには結論を出せずにいるが、少なからず、どちらにせよ、「私たちは自分という存在になりつつある存在」ということが言えるだろう。
そしてそれは、「私たちは、あくまでもプロセスを生きている」ということも、この「結論が出ない」ということが、示してくれていることであろう。
「私とは何者であるか?」とても深淵なテーマである。
フランス出身の画家ポール・ゴーギャンによる絵画作品《我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか》をネット上ではあるが眺めてみる。
まるで、すべての光景がすべての場所ですべて一枚に描かれているようだ…。
すべての光景…すべての場所…すべてひとつに…。。
Everything… Everywhere… All at Once…
『エブエブ』という映画をご存じだろうか?
「Everything Everywhere All at Once」
カンフーとマルチバース(並行宇宙)の要素を掛け合わせ、生活に追われるごく普通の中年女性が、マルチバースを行き来し、カンフーマスターとなって世界を救うことになる姿を描いた異色アクションエンタテインメント。奇想天外な設定で話題を呼んだ「スイス・アーミー・マン」の監督コンビのダニエルズ(ダニエル・クワン&ダニエル・シャイナート)が手がけた。
※映画.COMより抜粋
SFにカンフーとコメディを混ぜ合わせたような作品だが、アカデミー賞で七冠に輝くなど、脚光を浴びた作品だ。
家父長制的家族観、夫婦の在り方、子育て、LGBTQ、ジェネレーションギャップ、貧困、虚無感など、現代に山積するテーマが所狭しとちりばめられ、情報社会をマルチバースという形で比喩し、ユーモアたっぷりなヒューマンドラマに仕上がっている。
ネタバレにはなりたくないので、詳細は省くが、エンディングに向けての「愛」と「優しさ」と「ユーモア」に感嘆した。
現代の流行り言葉で、Z世代というものがあるが、そのZ世代に該当する彼の話を聴くと、思春期のようなものはなかったと言う。一聴すると、思春期がないことが虚無感へと繋がっているように思えたが、よくよく聴いてみると、思春期のようなものがあった。
それは、私の世代とは表層的に大きく異なることであった。
(私の世代は尾崎豊のような典型的な思春期の形が連想される)
彼の思春期は、私の世代と比べると平和的で合理的な様子である。
彼の話を踏まえると、表層的な部分は明らかな違いがあるが、深層的なところでは同じなのである。私たちの普遍的な部分と言えるかもしれない。
情報社会と言われる今日において、情報はカテゴライズ化され、「違い」や「差」がより顕著に明確化されているように感じる。
果たして、この「違い」や「差」は、私たちの根元的な領域のものであるのだろうか?
この「違い」や「差」は、あくまでも表層的であり、深層的なことではないのではなかろうか?
私は、同じ人間である限り、はたまた、同じ星に住む生物である限り、必ず普遍的な同じ要素を持つ部分があることを信じている。
それらの普遍的な同じ要素は、
共通のテーマを持つこと、または見つけることそのもの
ユーモアや優しさが生きる意味へと繋がるということ
愛のエネルギーにより新しい方法が生まれるということ
など、私が知っている限り多く存在している。
私は、アナログ手帳を愛用しているが、私は今、生きている
私は、ほとんどSNSを使用しないが、私は今、生きている
私は、「確固たる自分」が何かをわからないが、私は今、生きている
私は、ゴーギャンの絵を観ているが、私は今、生きている
私は、エブエブに感嘆したが、私は今、生きている
私は、あなたがアナログ手帳を愛用しているかはわからないが、
あなたが今、生きていることに気づいてる
私は、あなたがほとんどSNSを使用しないかはわからないが、
あなたが今、生きていることに気づいてる
私は、あなたが「確固たる自分」が何かをわからないのかはわからないが、
あなたが今、生きていることに気づいてる
私は、あなたがゴーギャンの絵を観ているかわからないが、
あなたが今、生きていることに気づいてる
私は、あなたがエブエブに感嘆したかはわからないが、
あなたが今、生きていることに気づいてる
私たちは、私たちの普遍的な要素を見失ったとき、途方に暮れるだろう。
だからこそ、私たちの普遍的な要素を探し、見つけ、テーマとして提示することを続けていきたいと思う。
少なからず、そう思うと
「明日も頑張ろう」
参考サイトURL
アイデンティティとライフサイクル
(著)E.H.エリクソン
https://amzn.asia/d/2fnO1aL
パラジット: 寄食者の論理〈新装版〉
(著)ミッシェル・セール
https://amzn.asia/d/3IHO5XM
Everything Everywhere All at Once(映画)
https://gaga.ne.jp/eeaao/
小林 厚志
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心理
担当
大阪梅田校
所属
脱サラ後、2016年に渡米、資格取得。大手社会人スクールにてNLP講座など担当。 心理学・心理カウンセリング・メンタルコーチング・コミュニケーション系の講師として登壇。年間登壇数150回以上。 パーソナルサポート事業ではメンタルコーチ/心理カウンセラーとして700件以上サポート。 「柔らかい人柄」と「ええ声」で瞑想ファシリテーターとしても活動。
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